ゴキブリは、今ではだれにもよく知られた虫の名ですが、言葉の成り立ちをたどると、はじめからこの形だったわけではありません。今の形の前には、もう少し長い「ごきかぶり」という呼び名がありました。
この「ごきかぶり」は、ふつう「御器噛」と書かれます。「御器」は食器、とくに椀のような器を指し、「噛」はかじることを表します。つまり、食器にかじりつく虫、あるいは食器を荒らす虫というところから生まれた呼び名です。
この名前の背景には、人の住む家の中で、食べ物や器のまわりに現れる虫として意識されていたことがあります。ゴキブリの名が、虫の形よりも、台所や食器とのかかわりから作られているところに、暮らしの中での実感がよく表れています。
もっと古い時代までさかのぼると、ゴキブリには別の名もありました。『本草和名(ほんぞうわみょう)』には、918年(延喜18年・平安時代中期)ごろの語として「阿久多牟之(あくたむし)」、また別名として「都乃牟之(つのむし)」が見えます。
このことから分かるのは、ゴキブリという言葉がきわめて古くからそのまま続いてきたのではなく、時代ごとに呼び名が移り変わってきたということです。平安時代には「あくたむし」「つのむし」、その後には「あぶらむし」や「ごきかぶり」が用いられ、今の形へとしだいにまとまっていきました。
江戸時代になると、「ごきかぶり」という名はたしかに文献に残っています。『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』では、1712年(正徳2年・江戸時代中期)の書物に「御器噛」の形が見え、少なくともこのころには、その呼び名が広く通じるものだったことが分かります。
一方で、「あぶらむし」という名も長く使われました。東京などではゴキブリを「あぶらむし」と呼んだことがあり、この呼び名も江戸時代からよく知られていました。つまり、今のように「ゴキブリ」だけで決まっていたのではなく、地域や時代によっていくつもの呼び方が並んでいたのです。
では、どうして「ごきかぶり」が「ゴキブリ」になったのでしょうか。ここは少し注意が必要で、もとの言い方が「ごきかぶり」だったことは共通していますが、今の形への道すじには二つの説明があります。ひとつは自然な音の変化としてとらえる考え、もうひとつは、書物の表記が広まって定着したとみる考えです。
後の説明としてよく知られているのが、1898年(明治31年・明治時代)の『日本昆虫学』です。この本で「ゴキカブリ」が「ゴキブリ」と記されたことが、今の形が広まるきっかけになったという説があります。断定しすぎることはできませんが、少なくとも明治のこの時期に、今の表記が強く広がったことはたしかです。
漢字では「蜚蠊」と書くこともありますが、これは生きものの名として当てられた漢字表記で、言葉そのものの出発点ではありません。語源として大切なのは、やはり「御器噛」という和語の呼び名が先にあり、そこから今の音の形が生まれてきたという流れです。
つまり、ゴキブリという言葉の土台にあるのは、家の食器をかじる虫という生活の実感です。平安時代の古い名から、江戸時代の「ごきかぶり」、そして明治以後の「ゴキブリ」へと続く流れを見ていくと、この言葉が、虫の学問だけでなく、人びとの暮らしの中から育ってきた呼び名であることがよく分かります。
主な参考文献
・『本草和名』
・『和漢三才図会』
・『日本昆虫学』
・『精選版 日本国語大辞典』
・『デジタル大辞泉』
・『改訂新版 世界大百科事典』
・『日本大百科全書(ニッポニカ)』





































































































