千住は、今では東京都の足立区南部から荒川区東部にまたがる地名として知られ、北千住や南千住の名にも残っています。けれども、その名がなぜ「千住」になったのかは、ひとつに決めきれるほどはっきりしていません。
この地名について、まず大切なのは、由来の話より先に、中世にはすでに「千住」と呼ばれる場所があったことです。つまり、あとから意味のよい漢字を当てて作られた新しい名ではなく、かなり古くから使われてきた地名だと分かります。
中世の記録では、この地の村は、のちの千住宿とまったく同じ場所にあったとは限らず、少し位置が違っていたらしいことも伝わっています。地名は同じでも、時代が下るにつれて村の中心や人の集まる場所が動くことは、古い土地ではめずらしくありません。
その後、1591年(天正19年・安土桃山時代)には千住村で検地が行われ、1597年(慶長2年・安土桃山時代)には千住宿が整えられました。こうして千住は、江戸に入る道の大切な宿場として広く知られるようになっていきます。
由来としてよく語られるのは、千手観音に結びつける話です。嘉暦2年(1327年・鎌倉時代末期)に、荒川で見つかった千手観音像にちなみ、「せんじゅ」と呼ぶようになったという伝えが残っています。
ただし、この話は土地に伝わる由来のひとつとしてはよく知られていても、決め手になる古い証拠が十分にそろっているわけではありません。同じように、千葉氏が住んでいたので「千葉住村」と呼ばれ、それが縮まって千住になったという話も伝わっています。
さらに、足利義政の愛妾とされる「千寿の前」の出生地だからという説もあります。けれども、これも確かな裏づけがあるとは言いにくく、千住の由来をひとつに決める材料にはなっていません。
このように、千住の語源は「これです」と言い切るより、古くからの地名に、後の人びとがいくつもの意味づけを重ねてきたと考えるほうが自然です。地名は長く使われるあいだに、土地の寺や武士、めでたい言葉などと結びつけられ、由来話が増えていくことがあるからです。
表記にも、そのことがよく表れています。土地の名前としては江戸時代以来ほぼ一貫して「千住」が公に使われてきましたが、祭礼や宿場の名、学校名などでは、縁起のよい字を用いた「千寿」も使われてきました。
ですから、「千住」の由来をいちばん丁寧に言うなら、中世にはすでに使われていた古い地名で、その起こりには千手観音説、千葉氏居住説、千寿の前の説など諸説があるものの、どれかひとつに定まってはいない、ということになります。漢字だけを見て意味を決めるより、古い土地の名として受け止めるほうが、この言葉の歴史には合っています。
千住という地名のおもしろさは、由来が不明だからこそ、土地の人びとが長い年月の中で、その名にさまざまな物語を結びつけてきたところにあります。たった二字の地名ですが、そこには中世の村、江戸の宿場、そして今の町へと続く長い時間が折り重なっています。
主な参考文献
・『デジタル大辞泉』
・『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』
・足立区立郷土博物館「千住と千寿」
・足立区立郷土博物館「地名千住考―発見された郷土史家の未発表原稿一―」
・足立区「足立区の沿革」
・国立国会図書館電子展示会「千住」










































































